昭和四十七年二月二十七日 朝の御理解
X御神訓 「何を飲むにも食うにも有難く頂く心を忘れなよ」
自分の嫌なもの、きらいなものそういうものまで、しかし私はこれは頂くことじゃないと思いますね。
例えば毒なものでも食べるということではない、私はここの本当にね、おいしい、本当に自分のいわゆる好きなもの、おいしい、おいしいと思うて頂く時にです、その、おいしいおいしいと頂くものの中にね、私は有難いという心を忘れるなと。当然のことですけれども、おいしい、おいしいだけで有難いものがないために食べ過ぎて、却って体をこわすこということになる。
私はここを例えて言うならば、食物訓ですからお食事の度に心の中に、または口に唱えて頂くわけです、「食物は人の命のために天地の神が造り与え給うものぞ、何を食うにも飲むにも有難く頂く心を忘れなよ」と。ですから私は本当に、おいしいおいしいという中にです、有難い有難いというものをこめて頂こうとせねばならんと思う。嫌なものとか毒な物とかというものまでも頂けということではありません。
教祖様の御理解の中にこんな御理解がございます。「わしは、はじめ唐臼を引いていると、神様が踊れとおっしゃるから踊る、歌えとおっしゃるから歌う。また麦を干しておっても、天気なのに雨が降るから入れいと仰ると入れる。そうすると雨がザッと降ってきおった。何でも信心は神さまのことを疑わんで馬鹿になってしなされ」と。これは信心のね。
昨日から頂いとります、昨日朝の御理解を昨日研修会でございましたから、また新たに取り上げて、本当にひとりでに物が出来るようなおかげを頂くことが、道理に合う信心をさして頂いて、道理に合うたおかげを頂くことは、物がひとりでに出来るようなおかげという。
昨日あのように頂きました「人間は万物の霊長であるから万物を頂いて道理に合う信心をせよ」なら道理に合う信心ということは金光教で教祖様が頂いておられるのですけども、金光様の御信心を頂いとっても、成程金光様は道理に合うた信心だと。けれども道理に合うた信心をしていなかったらもう、いかに道理に合うた信心であってもそれはしていな
いも同じことなのです。勿論だからおかげに合うた、道理に合うたおかげを頂かれるはずもない。
そこで道理に合うたおかげというのは、ひとりでに物が出来るような、例えば、どうぞどうぞと言うてお願いして、まあ自分勝手な願いを捨てて願う。成程おかげを受ける。だからそういうおかげではない、ひとりでに出来たのではないでしょうが。願ったから、頼んだから出来たのでしょうが。
だからそういうおかげがいけないのじゃないけども、そういう例えば、痛ければ痛い、痒ければ痒いで願わなければおれんのですから、願いもします。けれども本当に神様の願いとされる信心、それは「道理に合うた信心をせよ」とこう仰る。「そこにはお前が願わんでも頼まんでも、ひとりでに物が出来るようなおかげになって来るぞ」とこういうわけです。ですから、このひとりでに物が出来てくるようなおかげになって参りませんとね、それが残らないです。ただ願いに願うたおかげでは危ないです。
私は昨日その御理解を頂いてから、これは皆さんに聞いて頂くのを忘れとったと言うて、昨日研修会の時にお話したことですけどね。例えば道理に合う信心ではなく、例えて申しますと、自分が右にしたいと思うから、どうぞ右にならして下さい。左になりたいと思うからどうぞ左にならして下さい。成程右と願えば右、左と願えば左、一つの祈念力というか、取次、金光大神の御徳の働きによってです、頂くんです。私どもそれを頂かなければなりませんけれどもね。そういうおかげは本当に身に付いたおかげにはならない。
昨日、御理解に頂きました、高田浩吉というね、最高のおかげの受け場というかね、受けものというの、高度の受けものというのはどこまでも道理に合うた信心をさして貰う。人間は万物の霊長であるから万物を見て、道理に合うた信心をさしてもらわねばならん。そこからひとりでに出来てくるようなおかげ。
ならば、ここに一反なら一反の屋敷に、そこに三百坪なら三百坪の家を建てるということなのですから、間違いはありませんけれどもね。ただ自分の我情ですね、自分の思い、または自分の我欲のことを願って、それがおかげを受けるというのは、丁度屋敷がないのに外が川であるとか、海であるとかしますと、海の上に突き出す、であるところがあるでしょう、田園の上にこうつけ出してある。そういうようなもんじゃと。
私は昨日頂いてから、ああ、成程そうだろうなと思いました。いわゆる信心の受けものもないのに願うのですから、いわゆる屋敷、建てる家がないから、川の上なら川の上に突き出しよるような家なのです。ですから、神様から上を引っ張っとってもらわにゃん、下から支えとってもらわにゃならんのですから、その取次者の力がなくなるとストッと下に落ちなければならん、川の中に。
これはね、私の知っとる限りのもう大変な御比礼を頂かれた教会で、もうそれこそ飛ぶ取り落とすような御比礼の立った教会でです、おかげを受けた人達の信心の跡というものを見てみると本当にその通りです。私どもそれを例を上げて申し上げるともっとわかるですけど、これは人のことであったり、よその教会のことであるから申し上げられませんけれども。そういう二の舞をです、私は合楽で信心の稽古をなさってる皆さんはしてもらってはならん、させてはならんと私は思うです。
初代がおられた時には、ああいうおかげを頂かれたけどね、初代が亡くなられたとたんにです、その信者がどこに行ったやら、どこにおるやら、あの繁昌はどこへやら、昔のそれこそ夢というようなことになっておる事実がたくさんあることです。
言うならば本当の信心を分からんなりにおかげを受けるということです。それがその本当の信心というものが、その、私が昨日から申しておりますように、道理に合うた信心をさせてもろうて道理に合うたおかげを頂かねばいけない。道理に合うたおかげというのはひとりでにものが出来るようなおかげである。ひとりでにものが出来るようなおかげである。
そのことについて、昨日高橋さんが発表しておられました。本当に信心も出来んのに、まあ信心がスキッとしてない、そこのところ垢抜けしてないけれども、まあ私が頂いておるおかげこそ、ひとりでに出来とるおかげではなかろうかというお話をなさっておられます。
久留米に、福岡に、あのようにご承知のように大きな三福本店の他に、支店が次々と出来ていく。いづ定、新天町の、それから久留米のダイエー上と下二軒。福岡にダイエーが出来た。やはりそこにも支店が出来た。長崎に今度支店が出来て繁昌しておる。今度黒崎と八幡、北九州の方へ、小倉です。小倉と黒崎に、「三福さんあんたやらないか、他の人がやっても採算が採れないで困っておるからあんたがやったらどうか。御神意を伺われたら良かろう」ということでった。
そういうふうに、一人でにものが出来て行くというように、ものが出来ていく、そこにはちゃんと今人材で非常に困るけれども、そこには店長なら店長として、支店長に差し向ける人がです、昔三福にお世話になっていた職人とかというのがひょっこりやって来て、「君やってみないか」、「ならぼく行きましょう」という具合に、置いたものを取るように、言わばおかげを頂いておるということである。
「どうぞどこどこに支店を出して下さい」ということではないわけです。一人でにものが出来るようなもの、中にはやはり赤字のところもございますけれども、これはまだ私の道理に合う信心がまだ垢抜けしていない、スッキリしてないであろうというような頂き方をしておると、こういうことであります。
もうそれの例えば職人なら職人さんが、そして「ここに支店出そう」と思う時に、そこに職人さんがチャッと出来る具合という、例えば話というものは、もうただただ神様の働きちゃ素晴らしいなということの中に出来て行きよる。例えばそういうお願いしてお繰合わせ頂くことは、合楽の皆さんはそういう素晴らしいタイミングの中におかげ頂いてあるでしょうが。けれどそれは願ってね、のことでしょうが。言うならば、川の上に突き出したようなおかげです。成程十畳なら十畳出来たようだけれども、これは神様から引っ張ってもらったようなもの、ほっとけば落ちる。
私の知っとる限りでは、大変な御比礼を頂いて、それこそ総代幹部まで大変な御用が出来た人達がです、そこの教会長が亡くなられると同時のように四散してしまっている。どこさにか散って行ってしまっていっている。信心の影もないようになっている。私はそういう事実をですね、私どもそれを知っておりますし、皆さんも感じられることでございましょうけれども、そういうおかげに止まってはならないということなんです。
そこで道理に合うた信心はどういう信心なんであるかというと、一つ本気でいろいろ極めさせて頂いて、まあ高橋さんの例が出ましたので、高橋さんの例を取りますとです、もう一時に万事に御神意通り、神様任せで行かれるわけです。
自動車を買う。「いや一時待ったがよかろう」もう最近乗っておいでてる車はもうくたびれておる頃なのですけど、「まだ」と言われば「はい」というわけです。「先生車を買いましたから、お祓いして下さい」と根本的に違うているわけです。
ところがそういう行き方よりもです、なら高橋さんの行き方よりも、自分の思うようにしてそれをお願いしていく行き方というものは、言い換えるならば楽ですし、却っておかげ頂くようなふうにも見えるです。けどそれはどこまでも川の上に突き出しをするようなおかげなのですよ。そういうおかげを幾らたくさん頂いとってもそれは危ないということなのです。
例えば今日、私は新御理解の教祖様の、踊れと言われたから踊る。歌えと言われるから歌う。これなのです。「そげん私は歌やきらんですよ」と。「そげん踊れと言われても踊りきらんですよ、習うてもおらんのに」「振りはどうでもよいから踊れ」と仰るから「はい」と踊るという、それなのです。この辺はもう理屈じゃありません。
これはです、「さあ雨が降るから麦なら麦を乾かしてあるから入れろ」と仰れば入れさせてもらう。雨が降るとここにあるから、これだけではないです。教祖の「雨が降るからさあ入れろ」と仰っても降らない場合もあるわけです。例えばお天気の時もある。「金を拾わす」と言われるから行ってみると、お金は落ちてない。「親戚に死人があるからお悔やみに行け」と仰るから行ってみると、やらせて頂いたら、当の本人が出て見えたとか。そういうところ神様がただ仰せられるから、損とか恥ずかしい思いをせんならんから嫌だというのでないけれども、そういうことなんです、高橋さんの行き方。
私はね、それは自分は右なら右が良いと、右になりますようにとお願いする。するのは、どうでも今日は皆さんにわかって頂きたいのは、本当の受けものなしのおかげなのですから、川の上に突き出しをするようなおかげです。ですから、それを支える力がなくなったら落ちるです。危ない。その証拠をです、皆さん知っておられる。御比礼輝いた教会の古い御信者さん方のことを思うてみて下さい。もう絶対にそうなのですから。
さあ、また売れた、また売れたという、成程それは御取次のおかげによってそのおかげは頂かれましょうけれども、かと言うてです、ならそういうお願いをしてならんことはない。そういうおかげも頂かにゃならん、やはり願わなければならないことがあるから。けどそれにはです、その内容をつめて行けと言うのです。その内容というのが道理に合う信
心をさせて頂くと言うか、例えば「何を飲むにも食うにも有難く頂く心を忘れなよ」という御理解がこのように進展してきたわけですが、決して自分に毒になるものやら、食べたくないものやらを食べて、有難く食べろと仰るのではなくて、おいしいおいしいと頂かせてもらものの中にです、有難く頂く心を忘れてはいやせんかという心、その有難く頂く心をです、頂かなければならない。そしてその内容として、例えば右と仰ったから右にしたら損が出来たという、そういう事を有難く受けさせて頂く信心。
昨日文男先生が話ししておりました内に、私どもの心というものはいつも朗らかであるとか、清々しいばっかりというばっかりではない。たまには心が重くなってくる、わけもわからんのに心が暗くなってくる、滅入ってしまう。そういう自分の暗い心をです、これを人にぶつけてはいけないということ。そういう心を自分の心に頂いて、暗い思いをしなければ、言うならばセンチメンタルなことで、センチメンタルの一つのリズムがある。そのリズムに乗って暗い思いをしておるけれども、暗い思いをせなければ頂けない程しの、有難い、それこそ深い信心の喜びを頂かせて頂けるようなおかげを頂かねばならない。
例えば椎茸とか松茸とかが出来る。これは例えばジメジメした腐ったようなところに出来るのですが、それが最高の食物として頂けるように、かと思うと反対に、毒になるような、人の命を断つような、言わば茸も出来るということ。暗い心を、暗い心をそのまま人に持っていくことは、人までが人の心を傷つけなければならんこともある。それはこちらの頂き方一つで、言わば毒にも薬にもなるというような意味のことを話しております。自分の心次第で毒にもはれば、薬にもなる。
例えばそれが大変なおいしいものであっても、頂き方が悪かったら、滋養になるものでも、おいしいものでも、そのおいしい滋養になるものが反対に体を害することにもなるように、それを私どもは様々な、日常生活の上の食物だけのことの上に押し当ててみると、道理に合うた信心をさして頂いて、道理に合うたおかげを頂いた、一つのこつあいという、そこんとこを体得させて頂く。
これは私どもが頂くとおいしくてたまらんものでも、久富繁雄さんなんか、豚を全部食べ切んなさらん。豚の汁が入っとったっちゃ胸がせきなさる。だからそういうものをしゃっちもっち食べさせるということではない。それはおいしいものであっても、自分のそれに合わなかった。いわゆる他のもの、自分の好きなものを頂いて良いけれども、好きなものを頂く時の頂き方なのです。
例えば私どもがあれを頂きたいこれをもらいたいというおかげを願わせて頂く時の頂き方なのです。それがです、ひとりでにものが出来るようなおかげと同じようなおかげになるために、そこに信心の工夫をしなければならないということであります。
例えば高橋さんの例を取りまして、一人でにものが出来るような中にありましても、親が良かろうとおっしゃるけん、例えば支店を出さしてもらいましたけど、そこだけはずーっと赤字というところもあるということなのです。だからそれを止めましょうというのではなくて、そこから何かをわからせてもらおうと今精進しておられるわけであります。そ
れはスキッとした、いわゆる頂き方なのです。
私はどうしてこれほど一生懸命信心させてもらいよるのにおかげを受けられんだろうかということに、これをもうお話を聞くだけでなくて、本気でそこに取り組まなければおかげにならん問題があると思うのです。頂く力がないと言えばそれまでですけども。例えば見当違いのところに力を入れて、肝腎要のところに力の入らないというような事実をね、私どもは検討させてもらって、おかげを頂いて行かねばいけません。
「何を飲むにも食うにも有難く頂く心を忘れなよ」ということはどんなものでも、嫌いなものですけど、有難く頂くということではなく、現在自分がおいしいおいしいと頂いておっても、そのことを本気で一つ素直に、「神様頂きます。有難うございます」という内容をもって頂かせてもらうなら、それを素直に頂かせてもらうことがです、教祖様が歌えと仰るから歌う、踊れとおっしゃるから踊るということになりますでしょう。
そして例えばそれで胸が痛むようなことがあるかもしれんのです。神様が頂けと仰るから頂いたら腹が痛んだということがあるかも知れません。そういう頂き方がです、高橋さんが御神意を頂いているのに、しているのに赤字が続いているということもあるということなのです。その中からわからせて頂きます信心。そういう信心がわからせて頂く時にです、成程道理だとわかるようになろうと思います。いわゆる道理に合うた信心をさせて頂くから、次に道理に合うたおかげが受けられるのです。
昨日そのことを御礼申上げねばならぬことを、御礼を申し上げずに、ただ次の願いだけを願っておるということを、成程これでは道理に合わないでしょう。成程今お願いしておることを、こんなにスッキリおかげを頂いておる。いわゆる食べ過ぎの問題ですね、お話は。そしたらスキッとしていることのおかげを頂いておることのお話を聞かせて頂いたら、次にはあっと言うたおかげを頂いたという話を致しました。道理に合うているでしょう。
御礼を申し上げることを御礼を申し上げずに願うのだなくて、ならその願いを押し切っていけばおかげを受けられんことはないですけど、それではいつまでも道理に合うた信心ということにはなりません。道理に合うた信心はいろいろありましょう。
今日はその一断面とでも申しましょうか、一人でにものが出来るようなおかげを頂きますように、道理に合うた信心をさせてもらうということを、いろいろ身に付けていかねばならんと思いますね。どうぞ。